社会不適合者の誕生①「そもそも現代社会が非人間的なのね」
自他共に認める社会不適合者である僕がその「社会」を探求し、そこへの適合とは何かを模索するシリーズ。
今回は社会不適合者の誕生・・・を語る前に、社会とはなにか?である。
要約
・そもそも人間の脳は石器時代に最適化されたまま
・現代の定住生活は非人間的
・社会への適合とは、人間性の抑圧
・人間性を捨てきれない度合いによって、社会不適合者は生まれる
・豊かさを享受するためにはある程度社会に適応せざるを得ないが、適応できなくてもそれはあなたのせいではない
本文
社会が如何に『異常』なのかは、すでにご存じの方も多いだろう。
あの大ヒットした「サピエンス全史」が提示した通り、人間は本来石器時代に最適化された設計のままなのだ。
人間の脳が石器時代に最適化されていることが自明なのは、まさしく学校教育だろう。
人間は何年も学校によって社会に適合するように訓練しなければ、「使い物にならない」のだ。
勉強とは要するに、脳に無理矢理覚え込まさないと理解できないから時間と努力が必要なのだ。
石器時代の人間は、小集団~最高150人くらいまでの集団で生活していた。
そこには税金も法律も一夫多妻制もなく、格差や所有すらない世界。
狩猟採集生活は、自然の恵みだけで生きることができた。労働時間は少なく、環境が汚れたり悪化すれば移動すれば良い。
現在のアマゾンの少数民族の生活がこれに近い。
人間は獲物を探し、季節により採れる食物の場所を覚えておけば暮らしていけた。
ではなぜ非人間的な定住生活を行うことになったのか?
それは諸説あるが、徐々に移行していったようだ。
はじめ農業は細々と行われていた。おそらく季節移動型の生活の合間に行われていたのではないか?といわれている。移動前に植物を植えておけば、季節がめぐり再訪した時に「腹の足しになる」からだ。
縄文時代の集落跡を調べると、クリやクルミの木が大量に植えられていたそうだ。
それがサピエンス全史にあるように、いつかタガが外れた。
農業生産が上がり、徐々に農作物に依存していきながら定住生活を行うと人口が増える。なぜなら移動しなくて良いからだ。
人口が増えると移動が困難になり、より農作物に依存していく。そしていつの日か、気づくのだ。
「もう、農業するしか生きていけない」と。数世代に及ぶ農業依存の定住生活により、増えすぎた人口を養う環境は破壊され、狩猟採集生活のノウハウは消失したのだから。
しかし、先程から狩猟採集生活が理想郷のように書いているが、それは「間引き」されているからだということを理解しなければならない。
移動しながら自然の恵みだけで生活しているということは、生産力が頭打ちなのだ。
限界があるからこそ、その環境で生きていける人間の頭数は決まってしまう。環境に依存している生活形態なのだ。
よって、移動生活について来れないものは容赦なく間引く。
弱ったものや高齢者を「間引く」。これはアマゾンの少数民族により、現在でも行われている。
生き残る人間は屈強であり、弱者はある一定のラインを超えると排除される。
さらに縄張り争いにより、幾度となく戦闘が行われる。農業定住生活により戦争は大規模化されたが、狩猟採集生活でも戦闘はある。それは自然に完全に依存しているからだ。縄張りは生存権であり、そこには言葉も通じない小集団がひしめき合っている。
よって狩猟採集民は、贈与と交換により関係を構築しながらパワーバランスを維持し続ける。
パワーバランスの崩壊こそ、その環境の食糧生産量の限界値を逸脱するかもしれない危険行為だからだ。
以上のように、人間の脳はたった数万年の歴史しかない定住生活ではなく、数百万年の歴史がある狩猟採集生活に適しているのは当然である。
いわゆる発達障害の特徴が、狩猟採集生活に適しているともいわれている。例えば注意散漫で多動ということは、逆にいえば狩猟の際に有用だろう。
感覚過敏も、感覚が過敏すぎるのではなく、現代生活の刺激が強すぎるのだ。
コンビニで何でも買える状況でダイエットが困難なのは当たり前であるし、うつ病や統合失調症は近代まで存在しなかったという。
このように、本来の人間の脳は現代の刺激の多い非人間的な環境=ストレスでしかないし、現代のライフスタイルやルールだらけの社会には無理に合わせなければならない。
この社会に合わせるという生活の中で一定の枠からはみ出してしまった人が、社会不適合者や病人や犯罪者だったりする。
でもこれって、脳の違いなんじゃないかなと思うのだ。
脳はみんな違う。例えば扁桃体という部位が平均値より小さい/活動が弱い人は、抑制が効かず犯罪を起こす割合が多いという。
でもこの抑制って、狩猟採集生活に最適化されたまま生み出されたその人の脳からしてみれば、「聞いてないよ」となるのではないか?
これはたった数十年ばかりの歴史しかない現代社会の勝手な枠組みであって、その人はもしかしたら現代に合わない脳だから「犯罪者」になってしまったのかも・・・と言えるかもしれない。例)昭和はどこでもタバコが吸えたけど今は?
このように、社会への適合とは本来の人間性の否定である。
そしてその人間性とは微妙な差異があり、それこそいわゆる個性なのだ。
それを脳の差異として機能主義的に処理することは可能だろうし、そしてそれは現代の司法を一瞬で瓦解させる危険思想である。
しかし、建前として我々は義務教育の名の下、工業製品のようにある一定のクオリティー内に収まるように矯正されている。
いわば一度でも社会システム内において安価で義務的な矯正を皆が受けているという前提の社会に解き放たれる。
コンビニの美味しそうなスイーツを見つけてガツガツ喰い始めたり、好みの異性を見つけて飛びかかったり、他人の敷地に勝手に入り込んだり・・・そんなことはしないであろう人間として我々は出荷されている。
故に、現代社会において有用な人間とは、より人間性を否定し、社会に順応した者である。
ハンナ・アーレントのアイヒマン評を見て、アイヒマンの釈明こそ非人間的社会への適応を表している。
アイヒマンは、生活のために粛々とナチスによるユダヤ人へのホロコーストに加担した。しかし、彼は何もかも受動的であり、反ユダヤ主義の狂信的ナチ信奉者ではなく、ごく普通の小役人であった。
しかし、非人間的な行いという観点から見ると、子供への躾や学校教育や就職活動や経済活動も大きなカテゴリに入れると同類ではないだろうか?
アイヒマンは善なのか悪なのか、それは結局社会の変遷における歪の一症例のように思える。飢えた家族のために殺人を犯すのは、所有権が存在しない以前は善でもあったのだ。
善悪は社会の状況により変わり、人間が適応すべきベクトルも社会のその一瞬の状況に依存する。
戦争になれば敵国人の殺害は英雄的行為であり、平時になれば罪となる。
無秩序のカオスであった室町時代であれば、面子を守るために死ぬことは善であったし、そのために殺人を犯すことも善であった。
米国原住民(インディアン)社会では格差は悪であり、富者は大盤振る舞いして権威を得るがそれも一過性のものであり、時には高価な品物をわざと壊したり燃やすことまでする。
魔女狩りやポル・ポト派による虐殺だって、その瞬間、その狭い生活圏では善だったのだ。
このように社会状況の変遷により右往左往する程度の存在によって、我々人間は右往左往しながらもそれに適応するよう強制される。
そこで僕が思うのは、「ある程度適応せざるを得ないが、適応できなくても当然だし、それはあなたのせいではない」ということだ。
人間一人一人指紋が違うように脳が違う。
そして生まれた瞬間ごとに世の中の規範は違う。
もし時代と脳が合わなければ、必要以上に適応にコストを要すだろう。
だがそれはあなたが悪いのではなく、社会の前提が合わないだけなのだ。
衝動的でケアレスミスが多い人は、石器時代では勇敢なハンターとして讃えられたかもしれない。
ではなぜ非適応は悪なのだろうか?
それは簡単で、『みんな我慢しているから』である。
芸能人の不倫ニュースで関係のない一般人まで巻き込んで炎上するのは、みんな不倫せずに我慢しているからだ。
そもそも人類は一夫多妻制ではなかった。民俗学の本を読むと、つい最近まで一般庶民はそこのところの規範が緩かったようだ。
要するに、教育の名の下で「ある一定の枠」から逸脱しないよう品種改良された現代人は、皆が人間の本質的な情動を抑制され受動的に耐え忍ぶ宿命を背負わされている。故に逸脱者は社会的制裁を受ける。それは法律のようなあとづけを超えた社会理念という名のもとに。
しかし、社会批判はすれども、その社会の恩恵は計り知れない。
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」この本を読むと絶対室町時代に生まれたくないと心の底から思うであろう。
社会とは人間性の否定のおかげで文明を築き、最低限の欲求を満たせるようになった。
道ですれ違う人にいきなり襲われたり、信号ルールを遵守すれば轢かれることもなく、治安でも衛生面でも安全に商品を売り買いすることができる。
忍耐力が強ければ強いほど、イレギュラーの発生が少ない状態で大多数の人口が狭い場所で生活できる。
いつしか忍耐は義務となり、非人間性こそが人間性に取って代わり、いつしか社会は資本主義の分子になった。
この本末転倒を室町時代の人間は笑うであろう。というか、理解できまい
しかし、社会に対する個人の敗北を安易に認めることは当然とされているが極めて不自然だ。
社会とは一過性のもので、非合理的な経緯で答えが後付されていく過程なのだ。現在の五輪騒動を見れば言うまでもない。
では、社会不適合者を自認するあなた、世捨て人のようにポツンと一軒家で暮らす勇気がないのであれば社会の抑圧を甘んじて受けよう。
しかし、そこからくる不安やストレスは決してあなたが悪いのではない。
そしてその原因は変えることができる。あなたが悪いのではないが、現在の社会は「そういうもの」なので、ある程度は合わせる必要がある。
それはあなたが社会の経済活動の中の一員だからだ。
だからこそ、読書が必要なのだ。
勉強ではなく、先人の経験を簡単に得る方法が読書だ。
もちろん映画や小説でも良い。社会不適合者は、社会に適応するために、数々の問題を各個撃破するしかない。その術こそ、過去の経験から学ぶのである。
しかし、それは頭ごなしの押し付け教育ではなく、あなたが独自に主体的に摂取していく必要がある。
なぜなら、あなたに最適なモデルケースは史上において無い。あくまでも無数の経験の屍が横たわるだけで、モデルケースは用意されていない。
学校教育は社会適応のためのモデルケースであるが、それはあなたに適しているとは言い難い。
故に、自分で興味の赴くままに貪欲に知識を吸収するしか無い。
非体系的で金銭的な何かに直結はしないが、人生という短くも長ったるい時間を有意義に主体的に生きるにはこの方法しかない。
学びの先には新たな課題が勝手に浮かんでくる。
『現在の』社会に選ばれなかったとしても、それは決して負け犬ではなく、自分を責めるべき事柄でもない。
まず自らを認めること、それは受け身ではなく攻めの知識武装が道をひらく。
かく言う僕も自他ともに認める社会不適合者であり、恥の多い人生を送ってきたが、まるで後悔していないし、現在もそこまでストレスなく生きている。いずれ語ってみようと思うが、ある本の出会いによって世界はまるで違って見えた。
資本主義社会の現代日本とは、歴史的に見れば非常に稀有な時代である。その歴史の刹那のために生きるのではなく、自ら生きる道を開くという行為、それは非生産的で無価値とされているがそれこそ社会の欺瞞である。
社会があって自分がいるのではなく、まず自分がいて社会があるのだ。
そうでなくては「社会を認識できない=存在できない」のだから。
今回は社会が非人間的なことをまず認めるべきという話でした。
物質的豊かさと利便性の合理化が極まると、社会の抑圧が複雑かつ広大に敷き詰められてしまい、非常に生きづらさを感じる世の中になっていると思う。
だからこそ、個人の見識を広げ、無益な自己卑下につながらないようにするべきだという話でした。
これはもちろん知性とか学歴とかそういうものではなく、自己探求の学びという意味である。
なので正解はないし、正解は死ぬまで訪れないだろう。
社会は変遷し続け、個人は適応を迫られ続けるからだ。
その社会圧を功利的に受け入れつつも、個人を失わず大局的な視野を手に入れること。
これは全く社会的な成功に繋がらないかもしれないが、激しい変化を伴う現代社会において必要であると思う。
これからも少しずつではあるが、そういった反社会的勉強の助けになるような良書を紹介していけたらなと思う。
なぜ本を読み続けているのか?=生まれつき世の中のことがすぐに納得できないから
「なぜ本を読み続けているのか?=生まれつき世の中のことがすぐに納得できないから」について書いていきます。
要約
・先天的に世の中/社会のことが理解/納得しづらい感覚がある。
・普通の人は「そういうことなのね」と理解した気にして低コストに生きている。
・この理解の遅延や不快感のせいで、社会に慣れることができない。
・読書することで他者の経験を学び、社会に対抗する術を知ることで、社会からの疎外感/アイデンティティの喪失から身を守る距離感を得る。
・読書により、「当たり前の社会」以外の仮想世界を作ることで自己を肯定して生きることができる。
なぜ本を読むのか?
そう聞かれることが多い。月に五千円以上本の購入に費やす僕の行為が理解できないといわれる。
なぜなら、スマホでググればわかるじゃないかと。
たしかにググれば、圧倒的な速さと低コストで答えにたどり着く。
しかし検索機能というのは、疑問を意識することができなければ使うことができない。
「疑問」というのは認知的不協和だと思う。なんかしっくりこないという感覚。
僕の場合、先天的にこの認知的不協和に達する閾値が低く、そして何よりこの感覚が不快でたまらない。
普通の人が「そういうことなのね」で済ませることができてしまうのが羨ましい。
数学的な形式美ではなく、モワッとした情報の雲の中から何か手応えがほしくなってしまう。
この不快感を解消するには、本が必要だった。
本は著者の経験が書いてあるからだ。哲学だろうが小説だろうが、僕にはその全てが時間であり行為の結果である。
よって学術的な体系で学ぶという行為は、これもまた不快なのである。
僕は常にこの不快感を解消したい、かゆいところに手を届かせたいと思って読書しているため、体系的な知識の構築とはそれ自体が認知的不協和を生んでしまう。
なんせ抑圧や管理されること自体が、僕の認知的不協和の源泉であるからだ。
思えば、小学生の頃から教師に高圧的に指示されるのが不快でたまらなかった。学校教育は型にはめるための矯正施設であり、総じて不快だった。
そのため、僕のインプットはすべて独学である。
この独学とは知識摂取の軌跡であり、時系列すら無視したランダムな興味の各個撃破という戦術だ。
しかし、この全てが「先天的に世の中のことが理解しづらいから」との戦いの系譜でもある。
とにかく納得がいかない、納得いかないから反抗的になるし、理解も遅い。
社会不適合者というのはまさしくこれであり、要するに納得いかないから理解するまでに時間がかかる。いつしかこの遅延に対しての外圧(仕事、人間関係)や内省的不安により、自己喪失状態へ陥る。
僕はそこまでナイーブではないので、反抗的服従しつつも自己をなんとか維持してきたが、そうでない人を多くこの目で見た。
僕が自己喪失に陥らなかったのは一つ、読書による知識武装のおかげである。
知識武装すれば、『言い訳』が腐るほど湧いてくるからだ。
逆説的にだが、社会不適合者はこの言い訳を徹底すれば社会に適合したように見せかけることができる。この言い訳とは、自分に対しての言い訳なのだから。
言い訳により、社会からのはみ出しものではなく、社会という基盤こそおかしいのだと一歩距離を置くことができるのだ。
社会との距離感こそ、我々のような人間に与えられたライフハックであり、アジールは自分で構築するしかないのである。
このブログは、読書録や雑念のアウトプットという名の外付けHDDみたいなものだ。
社会との距離感を構築するためには、受け身ではなく攻めた人格形成が必要であり、その手っ取り早い方法は読書という名の「あるパターン」の摂取である。
この事象のカオスを意欲の向くままに摂取することで、いつしか星座のように関連性を無理やり見出すことができる。
その関連性は経験となり、より自己を明確にし、社会に取り込まれることなく社会に囚われることができる。
何者でもない現代人は、マトリックスのような仮想世界を欲している。社会不適合者こそ尚更だ。
なぜなら、社会に居場所などないからだ。
社会システムとは社会システムのためだけにある。
だが、人類がこれだけの人口で文明を築くために必要であるという共同幻想のもと、この社会を構築してきたのだから仕方がない。
スピード違反の取締こそ社会システムの縮図である。
ということで、僕は僕の反社会的な脳みそを社会を理解した気分にさせることで自己の存在感を何とか維持しながら生きてきた。
しかし、とにかく闇鍋のような知識武装の結果、東洋思想の本を読み耽るくらい取り留めのなさが気になってきたので、少しは知識をまとめていきたいと思うようになった。
なので記事更新は非常に稀だと思いますが、ネットの海に存在を放つことが即ち反社会的かつ自己の明確化だと思っているので少しずつ続けていきたいと思っている。
おすすめ本